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介護と母親

 脳梗塞を起こした祖母が左半身不随になり、病院でリハビリをして、ある程度回復してから自宅へ帰ってきました。その日から祖母の介護が始まりました。  今迄食事も全て一緒にしていたので、食事の場所が台所から、車いすの入る座敷へと移りました。祖母をベッドから車椅子へと抱っこして移動させて、車椅子のまま座敷へ入り、皆で食卓を囲みました。車椅子での移動は簡単なのです。祖母の寝室には簡易トイレを置き、おトイレの介助をしていました。オムツをすると寝たきりになるので、なるべくおトイレは自分でさせた方が良いのだそうです。学校から帰ってからは、高校生になる私と妹も手伝いました。トイレだけは父では祖母が恥ずかしがるのでダメでしたが、車いすへの移動だけは朝食の時と父が早く帰れた夕食時には、父が祖母の介助をしました。でも、父も私たち娘もいない昼間は、皆の掃除洗濯食事の準備に、祖母の食事とトイレの介助全てが母独りとなるのです。食事は寝室にお盆で持っていき、ベッド付きのテーブルに昼ご飯を持っていき、母も祖母のそばでランチを一緒にテレビを付けて楽しんだそうです。母にとって、祖母は実の母親だから、心が通じるのか、かゆい所に手が届き、「あれも」「これも」と色々祖母が喜びそうな事を考えてはしてあげていたようです。お風呂は1週間に2回、母の妹の叔母が来て二人で一緒にお風呂に入れていました。祖母をこけさせないように、一生懸命に。昔のヒノキ風呂だから、広さだけはありますが深いのでお風呂の中に椅子と踏み台を入れたまま湯を溜めて祖母を湯船につけていたようです。母娘3人で数十年ぶりに入るお風呂は娘達にはクタクタでも、3人一緒に湯船につかって楽しかったそうです。祖母の体を洗い、気持ち良さそうにしている母親の子供のような顔がとても嬉しかったと聞いたことがあります。  こんな嬉しい時はつかの間、夜のトイレ介助も結構大変で、着物の腰ひもでお互いの手首を結んで寝て、おトイレが行きたくなったら祖母が紐を引っ張ってベッドの横に布団を引いて寝ている母を起こすのです。「ヨイショッ!」力いっぱい腰を踏ん張って母は祖母の腰を抱えベッドから簡易トイレに移すのだそうです。そして祖母の手を熱いタオルで拭いてあげ、そして、母の首に祖母の手をかけ、祖母は母の首にぶら下がるような格好で、母は祖母の浴衣の帯を抱えるように持ち上げて、再び祖母を立たせ、向きを変えてベッドに座らせます。そして、足を持ち上げ、寝かせた後、簡易トイレのバケツの汚物をトイレに捨てに行きます。 そして片づけて再び母は床に着きます。こんな調子で3~4回おトイレに起こされるそうです。土曜日は私達も手伝いました。2人でやると早くて楽でした。  寝不足になると、腰紐が手首を引っ張ると、祖母のトイレの合図なのですが、母は「もう嫌だ!!」と思いつつも起きて、喧嘩になった事もあったそうです。でも、祖母の悲しそうな申し訳なさそうな顔を見ると、ハッと我に帰るのだそうです。「母親なのに」赤ちゃんの時は、祖母が自分を夜中何度も起きてオムツを替えたり、ミルクを飲ませたりしてくれたはずなのに、と。母親になってわかる母の大変さもあるそうです。  そんな生活が6年くらい続いて、祖母も簡易トイレではなく、ちゃんとお手洗いに杖をつきながらも自分で行けるようになりました。  しかし、母は「ギックリ腰」が癖になってしまっているようで、その時は1時間おきにシップを変えてあげています。祖母も亡くなって来年13回忌を迎えます。いつもニコニコして笑ってる地名と歴史をすごく良く知ってる祖母でした。あの頃は介護保険もデイサービスも、ショートステイも無い時代でしたから、介護は家族でするものでした。  祖母は認知症も無く、性格が変わることも無かったので、介助は大変だったけど、思いは伝わり会話もできるし、一緒に食事もしていたのだから、精神的に楽な介護だったのかもしれません。でも、母親でなかったら、ここまでできたかわからない、と母は言います。  介護士という他人を介護する事を職業とする人達がいかに大変か身を持って私は、祖母の笑った顔も忘れられません。
医療や介護の業界が伸びてきている現代。今は「保育士 資格」を取得していることもとても重宝されます。

高齢化社会の孤独と介護

 核家族化と高齢化社会の到来で、夫婦二人暮らしという年金暮らしのシニアカップルをターゲットにした産業が増えつつあります。しかし、シニアカップルは楽しい事ばかりではありません。人間いつかは死を迎えます。その死の訪れが同じである事はほとんどないのです。すなはち、夫か妻かどちらかが先に逝くのです。  退職を迎え「夫婦二人で第二の人生を」とほとんどの夫婦は思っています。しかし、病気になったら、誰かが介護をしなければなりません。娘夫婦や息子夫婦、孫達が面倒を見てくれる人は幸せです。  其々が核家族で暮らしてきたのですから、おじいちゃんおばあちゃんに会うのは、お盆とお正月の年中行事といった具合に、たまにしか会わないおじいちゃんやおばあちゃんの介護をするほど孫達には情が無い、極端にいえば、お小遣いをくれる人、お年玉をくれる人と思っているふとどき者もいるかもしれません。何故、このように冷たい事を言うのかというと、高校生の時、おじいちゃんが亡くなりました。一緒に暮らしていた私は悲しくて悲しくて、おじいちゃんが入院した時から泣き通しでした。お正月やお盆は、我が家も年中行事で親戚一同が集まり、おじいちゃんおばあちゃんを囲み、それは賑やかなものでした。台所は女たちが占領し、座敷では、男たちが宴会を。子供達はおじいちゃんおばあちゃんの部屋でカルタや双六をして遊んでいました。おじいちゃんと駒回しをしたり、凧を揚げたり、竹馬に乗ったり、遊んでもらったものです。そのおじいちゃんが亡くなりました。そのお葬式のお坊さんのお教の最中に、従兄が欠伸をしたのです。「おじいちゃんが亡くなったのに、なんて奴だ!」と私は怒りました。しかし、母が言うのです。「あなた達は毎日一緒だけど、1年に2~3日しか会わないと情が違うのよ。おじいちゃんだって、孫たちの中で、あなたのかわいがり方が違ったもの」と。私はびっくりしました。 話をもとへ戻します。だから、1年に数日しか会わない孫や嫁や婿達にそんな情があるわけないのです。皆、様々な事情を言って介護から逃げようとします。わが家族が一番大事。そうすると、介護施設に入るしかありません。でも、既に要介護状態となった患者さんは家族と一緒の入居は無理なのです。1人が元気なうちは、連れ合いを見舞いに、介護型療養施設に毎日せっせと通うでしょう。でも、夜は独り。その内、元気な方も病気になったり、痴呆症になったりと、老いは残酷にも忍び寄ってきます。病気なら、長期療養型になれば同じ病院に入院できる可能性もあります。病室は違っても会えそうです。しかし、痴呆症になったら、痴呆症の患者さん専用のスタッフの揃った特別療養施設に入らなくてはいけません。死ぬまで夫婦別々の暮らしとなるのです。 寝たきりになったり、痴呆で自分も誰もかれもわからなくなったりするのだから、別々でも、わからないのではないか、なんて冷たい事を思う人もいるでしょう。しかし、ひょんな時に意識がもどったり、正気になったりするのです。その時、どんなに寂しく孤独でしょうか。その時何を思うのでしょうか。考える気力も無く眠るかもしれません。  でも、私は思うのです。夫婦楽しく笑って暮らして、笑って逝きたいし、手を握って送ってあげたいと。そうする為には自分の事は自分でと子供や孫を当てにせず、家を売ってさっさと元気なうちに介護付き老人ホームに入居してしまえば良いのです。元気なうちから入っていれば、1人が寝たきりになっても、認知症になっても介護付きで同居が許されるのです。  「何て理不尽な!」と私は思います。子供たちの為に一生懸命働いて何十年もローンを払って退職前ぐらいにやっと払い終えるサラリーマン達が多いこの世の中で、退職したらサッサと家を売って、退職金と合わせて入居費を払い「さあ!老人ホームへ!」と移り住む、そんな思い切りの良い夫婦がどこにいるでしょう。まだ元気だからと、第二の人生、旅行や趣味へと楽しい事にお金を使いたいのではないでしょうか。  人は何のために働くのでしょう。人間関係はどうなっていくのでしょう。大家族の中の嫁姑で苦労した妻たちや親と妻の間で苦労した夫たちが、年を取り思う事は、「自分たちのような苦労は子供にはさせたくない」と。この思いが、核家族を作ったのではないでしょうか。そして協力や優しさや思いやりを、どんどん捨てて、身軽になった結果、老人ホームに入居した思いきりの良い老夫婦たちは、大家族の笑い声や賑やかさや面倒臭さや揉め事を思い出し懐かしくなる事はないのでしょうか。  高齢化社会の介護問題は、核家族が招いた家族との関わりの薄さ、情の薄さが原因のように思えてなりません。

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